
EXPRESSIONIST
Rio Enzo Fuzuki
文月 凉
私は普段、デジタルカメラに関わる自分を「ライター」であるとしている。
カメラマンでも写真家でもなく、ただのライターである
しかし、それは写真を撮ることに対して真摯で無いということではない。
写真に対して真摯な私は、「表現者」である。
私にとっては、文章も、詩も、歌も、音楽も、踊りも、写真も、動画も、CGも全てが平等な存在である。
私の創作のテーマは、人間の一番簡単な表現、つまり「言葉を喋る」という行為を使わずに、一瞬にして自分の意志を伝えきることである。様々な手段を用いて。それがすなわち「表現」であり、私は表現者である。
表現者は、自分を表現し、創作し続けていくことでしか生きることができない。
私がかくも深くデジタルカメラにコミットするのは、デジタルカメラが新しい表現手段の一つとして成ることを、一分一秒でも早めたいからである。そのために、自分にできることをする。ただそれだけの事である。その為には協力を惜しむことはない。
別に有名になりたいわけでもない。
ことさら金が欲しいわけでもない。
そのかわり、自分が表現の手段を得る為に、妨げとなるものはどこまでも追い詰める。
一日も早く、自分の感性の全てを解放できるモノを手に入れるために。
ところで、世の中には、はっきりと言ってしまえば2種類の人種が存在する。
神というものが存在するのならば、その神によって与えられた生命の本分を全うできる人間と、自然の摂理に反して「モノを作ることでしか生きていけない者」と。
私は明らかに後者であり、これからもそうであろう。
人は死して子孫を残すが、モノつくる人々は作品を残す。
そしてモノつくる人々は、自分の人生が終わっても、なおその作品の中に息づく意志に、人が感銘を受けることを至上とするのだろう。
少なくとも100年の時を越えて、人々の影響を与え続けるモノを作りたい・・・・
そしてデジタルカメラは、きっと時を越えて人に影響を与え続けるモノであり、それは多くの人とともに、私が作り上げる作品なのであろう。
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