1999/05/02
[ 迸る魂 ]
〜妻は逝き、荒木は泣く〜
アラーキーとは誰か、と聞かれたらら、ほとんどの人は誰であるか認識できるだろう。
次に想像することは、おそらく「芸術的エロ写真家」かも知れない。彼の写真は多くの人にとって、エキセントリックな印象を与え、これぞアートという衝撃を与えるだろう。
しかし、あなたは彼の妻の写真を見たことがあるだろうか?
私はよく自分で、「アラーキーが好きだから、彼のように肉が感じられる写真を撮りたい」といったり「肉が感じられない写真はクソだ」という。
しかし、実際のところ、女性を写真に撮るとすると、篠山紀信のように女性を静物してとらえ、その造形的な美、たとえば彫刻のように撮る写真と、アラーキーのように動き感情を持つ生物として撮る写真がある。もちろん前者を否定することは出来ないし、女の子に写真、ましてやヌード撮らせてといって、まずアラーキー風の写真を撮らせてくれることはない。
ただ、やはり私は写真というのは、リアリティであると思うし、その写真の後ろに生物的バックグラウンドがないものは、写真、つまり「真」を写したものではないと思うのである。たとえそれが作れられた写真であっても、その写真を通してその人物の人生が見えるのならば、それが「真実」でなかったとしても「真」だと思うのである。これに照らし合わせると、女性を静物として撮影するものは「写真」ではなく「写無」や「写物」であると思うのである。
造詣的な写真というものに対してこの「実」のある写真は、撮影するために多大な犠牲を払うことになる。撮る人撮られる人、ともにその命の一部分を削り取って、画像に刻み込むからである。まだ未熟な私は、それぐらいの気持ちをこめなければ、自分で納得した真実をそこに写しこめないのである。
しかし、この人の写真、特に彼の妻や愛描を撮った写真は、もうすべてのカットが満々と魂という水をたたえているのである。まさにこんこんと沸き出る泉から、好きなだけ水を汲んで、じゃばじゃばと注いでいるようだ。枯れることがないのである。彼の写真うんぬんよりも、アラーキーが好きなのは、実はこの部分なのである。
特に彼の妻を撮った写真のひとつは、あまりにすごすぎて、見た瞬間に魂を吸い取られてしまうような感じがする。あまりの魂の重さに、写真の中でそれが質量の限界を超えてブラックホールとなり、見るものの魂を果てしなく吸い取っていくようだ。私だけではない。彼の魂にシンクロできるものは、誰しもその写真を前にすると、ごっそりと体力を持っていかれてしまう。
その写真とは、黒い服に身を包んだ彼の妻の写真である。
別に取り立てて特徴的な写真でも何でもない。黒い服を着て部屋の中に立っている写真なのである。
しかし、それには人生の喜怒哀楽すべてが写しこまれているのである。まるで遺影として使われるということを予感しているかのように。
事実、彼の妻はその後、病死することになる。
そしてこの写真は遺影となった。
魂のすべては写真に封じ込められて、永遠となったのである。
私は、アラーキーの写真は、妻の死の前後で大きく異なると思うのだ。
妻の死後の彼の写真からは、どのようなトリックやテクニックをつかっても、泣き声しか聞こえてこないのである。写真展に出かけ、壮大な仕掛けの絵をたくさん見ても、妻ヨーコさんを写した一冊の本以上の感動は得られないのである。
これは、私がアラーキーを取り巻く人生を、本を読み知ったから得た感情ではない。
彼のことを詳しく知る以前から、彼の写真には2種類の写真があると思っていたのだ。
結局のところ、彼が泣きつづけているのかどうかは、彼にしかわからないことだし、そんなことを人にいわれるのは、彼にとってみれば大きなお世話だろう。どんな言葉で何を語りかけようと思っても、最終的に人間は自分でしか自分の感情を整理することは出来ない。「君の気持ちがわかるよ」という言葉ほど傲慢な言葉はないのである。
私はカメラマンでも写真家でもない。表現者である。
だからといって写真に対して真摯じゃないわけじゃない。
もし写真を撮るのであれば、自分の魂を削っても、被写体の魂を削っても、その結果シャッターを押した瞬間に二人ばったり倒れることになっても、人が引き込まれて、その写真に内在する激情の渦から、決して抜け出すことが出来ないような写真を撮りたいと思うのである。そして一歩でもその感情の深淵に近づき、そこに何が存在するのか見たいのである。 |