logos.gif.jpg (13541 バイト)

1999/04/28
[ 迸る魂 ]
〜 窪島誠一郎と村山槐多と 〜

 「夭折」という言葉がある。
 私が知っているこの言葉の使用法は「夭折の画家達」である。
 知った理由はある美術館館長の著作からである。

 私は今親なしである。でもこれではなにかと不自由なので、年に数回ご奉公することで、大学時代の教授に身元引受人になってもらっている。
 この先生は信州の望月に別荘を持っていて、ゴールデンウィークや夏などにくつろぎにやってくる。私も若いときには、といっても20代前半だが、そのときどきに付き合っていた女性や、仲のよかったころの前妻と訪れたことがある。
 ある夏のことだった。
 ちょうどそのときは一人で先生の別荘にお邪魔して、避暑中の運転手をしていた。
 先生はその性格故か人に非常に好かれる人で、その村でも人気者だった。なにかにつけて別荘に人が集まってきて議論したり、会合や宴会に呼ばれていた。
 私といえば、宴会や人が多いところは苦手なので、先生を送っていっては宴席は遠慮し、車の中で寝ていることがほとんだった。
 あるとき、同じように車の中で寝ていると先生が私を呼びにやってきた。ちょっと紹介したい人がいるのだという。
 しかたがないので、しぶしぶ母屋の中へついていく。
 古いががっしりとした低い木戸を背をかがめてくぐると、囲炉裏のある部屋に通された。
 そして頭をあげた瞬間、背筋が寒くなった。
 そこには20人ぐらいの人間がいたのだが、その中に、明らかに異なる色の、重い、とても重いオーラ、あるいは業を背負った人がいたのである。紹介されるまでもない。誰のために私が呼ばれたのかすぐにわかった。
 気づくと、私は土間から座敷に上がり、その人に向かって跪いて、手をつきふかぶかと頭を下げ挨拶をしていた。

 営業マン時代の経験から、今でこそ人に対してきちんと挨拶することを覚えたが、当時の私は、本当に鼻っ柱の強い、粗野な人間であった。その時代の自分を省みるに、人に対してきちんと挨拶した記憶などない。
 しかし、彼には言葉を発さずとも、私にそうさせるだけの重みがあったのだ。
 まるで弱い動物が強い動物に対して、本能的にひれ伏すようなものだ。

別に何の話をすることもない。挨拶をして、あとはほとんど沈黙だったと思う。その人はことさら高貴な雰囲気を持っているわけでもなく、威圧的な態度なわけでもなく、むしろにこやかに笑い、輪に加わっている。しかし、私自身の印象は、まるで山にすむ熊撃ちの猟師だった。つまり、銃を持つとは言え、山というヒエラエルキーの頂点に立つち、必要とあれば、それを持って「狩る」ことができる猛獣がわずか数メートルのところにいるという感じだ。
実のところ、彼の顔はよく覚えてないのである。つまり、オーラとイメージだけが鮮明に残っていて、その情報を受け取るかわりに意識をごっそりともっていかれて、あとはよく覚えていないのである。ただ自分が「この人にはかなわない」と思ったことだけは記憶に刻まれている。何がかなわないのかよくわからないが、30年ばかりの人生を生きていて、絶対勝てないと思った相手は初めてだった。
 「この人はきっとぶっ殺しても死なない。自分の意思で生きて死ぬ」
 そうも感じた。

 彼の名は窪島誠一郎といった。

 後日、私は彼が主催する美術館を訪れることになる。
 その名は「信濃デッサン館」。
 山間のお寺の境内にある小さな美術館だ。
 一見すると、ただの田舎風の喫茶店にしか見えないこの美術館の中には、蠢くようなオーラが渦巻いていた。

 そこは、さまざまな理由で、若くしてその生涯を閉じた画家の絵を展示した美術館であった。一歩その館に足を踏み入れたときに感触は、本当に筆舌に尽くしがたい。
 何か悟ったような、あきらめにも似た絵。
 青春の迷宮の中で激しく走り迷いつづたままの絵。
 抑えがたいリビドーが、主が消えた今でも、ある絵からは激しく迸り、またある絵からはじっとりと滲み出ているのである。
 壁の四方八方から、絵が、悲鳴や何かを求め続けるような声をあげているのだった。
 一般の美術館とは明らかに異なるのは、そこにはおそらく画家としての地位を確立し、自分が狙った作品を作り上げ、自信を持って公にするといった、「成物」した作品が無いことだった。
 この中で最も私の心を引きつけたのは、順路のはじめに飾られていた「尿(すばり)する裸僧」という絵と、最後にあった「槐多の恋文」という一通の手紙だった。いずれも村山槐多という青年によるものである。
 「尿する裸僧」は読んで字のごとく、小便をしている裸の僧侶の絵だ。彼は裸のまま手をあわせ、拝むかのように、地面においた托鉢の椀に向かって迸る小便を注いでいるのである。赤い絵。表現のしようのない黒ずんだ赤とつやつやとした黒。
 何か言葉に表しがたいのだが、村山槐多という人を見かけたような気がした。
 例えば私は「言葉を使わずに、他の表現手段を持って、一瞬にして自分の意志を伝えきる」事を、自分の表現活動のテーマであるとしている。そういう側面から見て、「尿する裸僧」は、彼の思いの何かを、一瞬にして私に伝えきってしまったわけだ。脱帽である。
 もう一つの恋文は、その名の通りラブレターである。
 彼が、如何に相手を愛しているかをしたためたラブレターだ。
 燃えるような想い。ストレートに、エゴイスティックに、それでいて自分の中に存在する幻の君には気遣いながら、切々と自分の心を綴っているのである。
 これを読んでしまうと、今まで自分が書いてきたラブレターが、如何にちんけで、回りくどく、相手を見ず、きちんと意志を伝えていないモノであったかを痛感した。「なんでこのように気持ちを伝えられなかったのだろう。」と、今まで出したラブレターの一つ一つが悔やまれて仕方がなかった。
 ラブレターで伝えきれず、直接告白するのが男らしいとして、自分の想いを紙の上に紡ぐ事ができなかったことを、表現者として恥じたのである。
 なぜ、そうできなかったのだろう・・・・。
 私は窪島氏との出会いのように、激しく浸食されて美術館を後にする。

 その後、私は一年に一度はこの美術館を訪ねて、何故窪島氏は彼らの作品を集め、日の目を見る機会を与えたのか考えることにしている。その理由は未だわからない。その後窪島氏と会う機会を得ていないので、彼の口から聞くこともできないままである。
 もちろん、窪島氏の著作には、「信濃デッサン館日誌」や「わが愛する夭折画家たち」という本があり、その中には、彼が美術館を開館するまでの想いも記されているのだが、違うのである。得たいのはもっと簡潔な何か。登山家に「なぜ山に登るのだ」と聞いたり、歌い手に「なぜ歌を歌うのだ」と聞いたときに得られるそれである。

 やがて数年が経ち、私はその時の恋人とこの地を訪れる。
 私自身が誰であるのかを彼女に伝えるために訪れたのである。
 美術館に入ると、彼女も激しく感銘を受け、暫し沈黙する。
 彼女は、私よりもクリアかつストレートに世界を見る人だったので、私ほど浸食されることは無かったが、やはり衝撃は受けたようだった。
 その彼女が、私の目には全く見えなかった、ある発見をする。
 彼女は「槐多の恋文」を見終わって、一言こういったのである。
 「この人・・ホモ?」
 「・・・なんで?」
 「だって稲生っていう少年へのラブレターやん、これ。」
 そう、私は本当に単純な事を見落としていたのである。
 呆気にとられて、私の頭の中は真っ白になった。
 そして次に笑いが込み上げてきた。心の底から笑う。声をあげて笑う。
 槐多がこう言ったような気がしたのである。
 「好きになったらもう、突進するしかないじゃん。」
 そうなのだ。彼はきっと自分の書いた恋文が、何十年も後の誰かに見られるだなんて思ってなかっただろう。
 しかし、見られてしまった以上、きっと彼はそういうに違いない。

 私は笑いながら美術館を後にする。彼女は私が何で笑っているのかわからないみたいだった。
 「なに笑ってんのん?」
 「いや。お前はおもしろい目を持っているよ。俺には見えなかったもん。あれが。」
 「え〜?なにぃ〜?」

 そう。私は槐多の後ろに立つ窪島氏が、にやりと笑ったような気がしたのである。と同時に、今度お会いした時は、目を見て話をすることができるような気がしたのである。

 現在、信濃デッサン館には姉妹施設として、戦没画学生の絵画を飾った「無言館」が設けられました。信濃デッサン館の所在や、窪島誠一郎氏、無言館に関する情報は、Infoseekなどで、「窪島誠一郎」とseekする事で得られます。


[  B  A  C  K  ]