1999/02/02
[ カメラからオーラ ]
〜人とオーラと分かり合えること〜
(注:この原稿は、「文月凉の今日もデジカメ日和」に掲載された原稿をベースに加筆修正してあります。
●人とオーラと分かり合えること
例えば、人間には霊的存在が見える人とかあるように、オーラが見える人がいる。ただ、その感じ方は人それぞれで、私の場合、目では見えないが感じることができる。
私は今猛然と怒りのオーラが出している、とか、和のオーラが出しているとか。あるいは目の前の人のオーラの大きさに、あった途端圧倒されて跪いていたこともある。
多くの人はその存在をそれと感じ取れないのだろうが、気付かずにこういった言葉で表現している。
「近寄りがたいほど熱中している」
これならばわかるだろう。
見えないけど、感じ取って「邪魔しちゃ悪いな」ということになるのだ。
ただ、それをオーラみたいな説明不能な存在として感じられるか、そうでないかだけの違いなのだが。
私は超自然現象と言われる物が科学的に解明されることが好きだ、が、神というか超自然的意志の存在は認めている。
「人事を尽くして天命を待つ」なんてのは、その超自然を説明する言葉として好きなものである(正確な意味とは異なるかもしれないが、私はそのようにとらえている)
だから、人間の目に見える物以外にも、きっと何かが存在すると思っている。
私は「スイッチが入って」「魂を削るような作業をする」事がある。
物を作ってしか生きられない人間だから、そのスイッチが入ったときは、もうだめである。全てがそこに集中してしまって、スイッチが切れるまで止まらない。
しかし、その結果生み出されるモノは、およそ常識的なレベルを超えたモノである。
ただ人との共同作業となると、このスイッチが入ったところで結果に結びつくとは限らない。
共同作業では、自分のスイッチだけではなく、相手のスイッチも入らなければ、1+1が2より大きくはならないからだ。
以前つきあっていた女性は、私との共同創作活動においてはかけがえのないパートナーであった。
しかし、ある時彼女とはお別れすることになる。
彼女は去り際に、私が彼女をきちんと見つめていなかった事が破局の原因の一つであると言った。私がカメラを通して真剣に彼女を撮ろうとしなかったからだと。
最初の頃は恋の病にうなされて、彼女が慣れるまではと無理矢理スイッチを入れて撮影をしていた。ところが、いくらたっても彼女は被写体として全身全霊で自分を投げ出そうとしない。やがて、飽きてしまったのだ。スイッチが入らないなら、撮っていてもしょうがない。しかし、彼女はそれを最後まで気付くことはできなかった。
そして彼女は、最後に私が撮ったいくつかの写真を破棄してくれと言った。
そうか、そんな程度のモノだったの。作品では無く、ただの遊びだから、楽しい時間がすぎてしまえば、それは愚かな戯れにしかならないのだろう。
魂を削っても仕方がない。削り損だ。
この話から遡る事2年。ある場所で女の子にあった。
「この娘からは、おもしろいオーラが出ている」
話をしてみると、たいそうおもしろい。科学とメルヘンが同居したような人間であった。
例えば、神の存在に関しての語らいでは、「信じなければ神は存在しませんよね。強く信じれば存在するし、忘れられていけばいずれ消えて無くなってしまう。信じればデジカメの神様だっているんですよ」という。
あはは。なるほどその通りである。
そんな話の中、彼女には「スイッチの話」「魂を削る話」をしたのである。
モデルになってもらった一度目の撮影で、彼女は「浸食されたみたいだった」と言った。
二度目の撮影の後、メールでは彼女は視覚的にあるもの見てしまったと言った。
命を削るためのスイッチの入った瞬間と、そのビジュアルイメージが目に見えてしまったのだそうだ。
そのイメージはカメラのレンズから発して、稲妻のように走ったそうである。
おそらく相当ぐったりと来たはずだ。
私が魂を削る事にあわせて、一緒に削られてしまったのである。
実は彼女は、自分自身が創作者、つまり「ものつくる人々」である。
彼女の中の創作者として削るべき命は、今はまだ不確実で、まばらで、突然天啓のようにふってくるらしい。
従って、私とコラボレーションする事で削られてしまう波長を持っているのならば、その質量が十分な重さを得るようになるまで、あまり接触するべきではないのかもしれない。
この質量の大きさはブラックホールみたいなモノで、迂闊に近づけば、飲み込まれて、頭がおかしくなってしまうからだ(波長の異なる人にとっては何ともないことなのだが)。
しかし、同時に私は彼女の創作の泉は、上流に満々と水をたたえたダムを持つと思っている。その堰が切られてしまえば、無限に水の流れ込む豊かな泉になると思う。
あとは、彼女がその堰を抜く勇気があるかどうかだ。
例えば、恋愛とかセックスとか、そういったこともあるし、そういう事に興味がないわけではないが、それは種を保存する事の人間の本性であると思っている。もちろん私の中の何分の一かはそういった物の塊だ。裸で女がねっころがっていて、やっても良ければヤル。
しかし、子供を作るかわりに、作品を作ってしか生きられない人間は、そんなことより興味のあるモノがある。創作者としての喉の渇きをいやすため、どんなに自分を削る事になっても、平気でゴリゴリ削って生き続ける。目的は、おそらく子孫を残すかわりに名前を残すことなのだろう。
その中で、命を削る姿が見てくれる(あるいは見える)人は、砂漠にあるオアシスのようなものである。
創作者にとって、本当に必要な物は理解者であり、感じてくれる人である。
道しるべが無ければ、巨大な都市でさえいつしか砂塵の中に埋もれていってしまうのである。
今後、彼女がどういうオーラを持った人に成っていくのかはわからないが、少なくとも私の姿が見える人がいるのは幸せなのかもしれない。少なくとも創作者としてのあがきは彼女の記憶に中に残るわけだ。
人生は現実とスピリチュアルな部分で成り立っている。
私は幸せである。
モノ書く人たる現実世界では良き理解者達がいて、創造者たるスピリチュアルな部分でも私の姿が見える人がいるからである。 |